ずっと記憶の底に沈んでいた名前だった。サガンを読んだのは高校生の頃。そのころの文学好きの少女にとって、サガンを読むのは通過儀礼のようなものだった。
『悲しみよこんにちは』を読んだときの衝撃はよく覚えている。繊細で多感で、そして邪悪とも言える少女の心の動きに目がくらむようだった。その後、本の名前すら覚えていないけれど、つかれたように何冊か一息に読んだ。危なげなゆらめき、そのまぶしさに魅せられた。
サガンの小説に描かれた女性たちは、物憂げでありながら、きらきらと輝いていた。サガンの名とともに、その傍らにあった朝吹登水子さんの名も、脳裏にくっきりと刻み込まれた。
それはまるでひとときの夢のようだった。いつしか、サガンを手にとることもなくなり、その名すら忘れていた。
『ライ麦畑でつかまえて』に関連する本を読んでいたとき、その人にとって『ライ麦??』は心に刺さったトゲだったという記述があった。その表現を借りるなら、わたしの心に刺さっていたのはサガンだった。死去の報に接して初めて気づいたことだけど。
「結局彼女は『老いた少女』のように死んだのだ」と、朝日新聞の追悼記事で関川夏央さんは書かれている。
「老いた少女」フランソワーズ、どうか安らかに──。


(まだ子供だった)
いつになっても鮮烈な作品です。
わたしは映画は見たのかどうか、記憶が定かでなくて。
訳書の印象は鮮やかでした。朝吹さんの訳は流れるように美しくて、ちくちくしながらも、サガンの世界にのめり込むように入っていけました。
そのせいか、サガンの印象というと、文庫の、何て言う色なんだろう、シックでそれでいて華やかなカバーの色彩と結びついています。
時代を駆け抜けた女性でしたね。サガンも、また、登場する人物たちも。